首里城の火災鎮火 復元の主要7棟焼失(サンスポ)
31日午前2時40分ごろ、那覇市の首里城で煙が上がっていると、警備会社から119番があった。正殿などが激しい炎を上げて燃え、正殿と北殿、南殿が全焼するなど主要7棟の計約4800平方メートルが焼失、午後1時半ごろに鎮火した。周辺住民30人以上が一時避難したが、けが人の情報はない。市消防局によると、正殿内部から火が出た可能性が高く、那覇署と出火原因や経緯を調べている。
世界遺産じゃなかったから良かったとかそういう話ではないので誤解しないでくださいね。
今回の非常に残念な火災による首里城の焼失ですが、首里城といえば世界遺産というイメージが強いですよね。実際私もそうでした。今回の火災をきっかけに首里城について調べてみると、世界遺産「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として登録されているのは首里城ではなくあくまで首里城「跡」であるということがわかりました。
首里城の歴史
首里城がいつ建てられたのかは定かではなく、13世紀~14世紀ぐらいのものだろうと推測されています。琉球王朝の王家の居城として使われていた首里城は過去四度焼失しており、そのたびに再建されました。今回焼失してしまった正殿の姿は1715年~1945年まで建っていた姿が元になっています。
戦争で破壊される
太平洋戦争の沖縄戦では日本軍が首里城の地下に総司令部を設けました。それによりアメリカの軍艦から砲撃を受け、焼失してしまいました。これが四度目の焼失となります。なお、このとき首里城の宝物はアメリカ軍によって全て破壊、略奪されました。戦後、略奪された宝物の一部がアメリカから返還されました。
戦後の首里城の敷地は琉球大学のキャンパスとして利用されていたりもしました。
沖縄の本土復帰が決まると戦争で失われた文化財の復元が進められることとなりますが、首里城に関しては守礼門などの一部が復元されるにとどまっていました。
本格的な再建が始まる
1980年代後半に入ると本格的に首里城の復元が始まりました。しかし首里城に関する資料が不足していました。きちんとした設計図や写真などはなかったのです。そこで研究者が資料を探し出したり首里城を覚えている人の記憶をたよりにして再建が始まりました。
そして1992年に再建が完了しました。
世界遺産に登録
2000年(平成12年)に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産に登録されたのは「首里城跡」と他のグスクでした。グスクとは「城」のことです。今帰仁城跡(なきじんじょうあと)などが首里城跡と共に世界遺産となっています。沖縄を旅行していると豊見城(とみぐすく)とか中城(なかぐすく)とか城を「ぐすく」と読むことが分かりますよね。
というわけで首里城という建物そのものではなくそこにかつて城があったんだよということで(実際石垣などの遺構がある)、それが世界遺産(文化遺産)として登録されているのです。
再建を願う
歴史的建造物はそのあまりにも長い歴史により途中で失われ、再建されることも珍しいことではありません。特に木造であれば建造時からそのまま残るのは難しいことです。何年連続してそのまま建っているかだけでそのものの価値ははかれません。その建物にまつわる歴史、文化、人物などがあってこそのものです。そうでないと物語は生まれませんからね。だから失われたら再建すればいいのです。焼けたから首里城は終わり、などということはありえません。世界遺産は歴史的に素晴らしいものであるとは思いますが、結局世界遺産かどうかがそのものの価値を決めているわけではありません。建物自体は世界遺産ではないわけですが、沖縄のシンボルであり、また地域の人たちにとっても欠かせない存在であることは言うまでもありません。世界遺産であるかどうかは関係なく、沖縄の人々、また全国民にとっての宝物です。長い期間はかかるでしょうが再建は必ずされることでしょう。今回の火災では犠牲者がいなかったというのがせめてもの救いでしょうか。この悲しみは計り知れませんがいつか必ず立ち直ることができると信じています。